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二次元のイケメンが好きなどこにでもいるメンヘラです。

わたしの母について

最初の投稿ですが、あまり楽しい内容ではないと思います。

先程、Yahoo!知恵袋でこのような投稿を見つけました。

 

m.chiebukuro.yahoo.co.jp

 

今日の総合ランキング1位の質問です。内容は見て頂ければ分かると思うのですが、5歳の娘さんが突拍子も無く、「生まれ変わってもママの子でありたい」という発言を、お父さんにしたそうです。それを聞いた投稿者であるお母さんは、なんとも言えない気持ちになって、知恵袋に投稿したようです。同じくらいの年齢のお子さんを持つ方や、スピリチュアリティな方などが飛んで来そうな内容ですが、ベストアンサーに選ばれた方は、こんなことを言っています。

 

「先週6歳になった娘が、半年ほど前によく同じようなことを言っていました(中略)結局、しっかりと抱き締めてお母さんは〇〇とずっと一緒にいるよという約束をして、少し安心したようです」

 

ここで、話題はわたしの母に変わります。

 

わたしの母は、発言は厳しいものの、基本的には不自由の無いように、わたしや弟を育ててきました。門限等も無く、水商売も許される。所謂、放任主義な母です。

そんなところが好きではあります。ですが、全般的に見て、大好きな訳では無いのです。

 

母は、前述した通り、発言が厳しいのです。甘ったれた考えは大嫌いで、苦労や努力をしてナンボといった感じの母です。祖母や、中学生時代のバレー部の顧問にしごかれ、しごかれ、このような母が出来上がったのだと思います。あの当時の大人は、他人にも相当厳しかったと聞きます。現在の大人たちは、他人とは関わり合いを極力持たないように生きています。現状維持が最高な世の中です。

脱線しましたが、母は、わたしが甘えたりすると、「気持ち悪い」「暑苦しい」「やめて」と、わたしを拒絶するのです。

これは、きっと、幼い頃からそうでした。物心が付いた時には、既に、母はこういう人でした。

なので、わたしが母に甘えることはありません。外で悲しいことがあっても、家族の誰にも相談しませんでした。

 

小学生の頃、酷いいじめに遭いました。けれど、相談しませんでした。それが原因の一つで、学級崩壊までしました。母は、学校に呼ばれるまで、いじめの存在を知りませんでした。

 

中学生の頃、ネットサーフィンや友達の情報から、「お母さんは一番の理解者」「お母さんはなんでも話せる親友」という存在であることを知りました。それが普通。それが一般家庭の母親像なのだと、わたしはその時思ったのです。

 

中学生でもいじめに遭うという、いじめられっ子体質のわたしは、母に現状を伝えてみることをしました。

 

「そんなこと言う奴は放っておけ」

 

これが母の言葉でした。今思うと、最もです。小学生の時も、わたしがワンワンと泣くから、男の子達は面白がって、わたしを総攻撃していたのだと思います。これが、「だから何?」という、ツンとしたつまらない反応だったら、結末は違ったと思います。ですが、当時のわたしは、その発言に対して思ったのです。「それだけ?」

放っておくことができないから、話を聞いてもらったのです。悪口を言われたり、冷たい態度を取られたり、もう我慢の限界だったのです。わたしは第一声に、「つらかったね」「悲しかったね」が欲しかった。アドバイスは二の次。まずは同調が欲しかったのです。

 

そして、前述した子達とは違う人に、わたしはとても傷つけられました。わたしは現在進行形で心が病んでいますが、きっと、その人がきっかけです。その病にはあまり自覚症状がありませんでした。ですが、高校生の時に、わたしはどんどん弱っていきました。

 

その頃からです。母と、関係が上手く行かないのです。母はわたしを慰めることは一切しません。必ず、最初にわたしを悪者にするのです。小学生の時のいじめを、「あんたが泣くから(いじめは終わらなかったの)よ」というように。専門学校に通っていた時も、わたしのやりたいことと、学校でできることが違っていたことがわかり、わたしは母に相談しました。「じゃあやめるの?」とても冷えた声でした。その声と、お金を出してくれているのは母(正確には両親)だということが、自主退学を引き留めさせました。

母はわたしを抱き締めません。母はわたしに、目に見える愛情を注ぎません。わかるのは、お金をかけているということと、家事だけです。教育費、食費、光熱費等の面倒を見ている。そして、料理、洗濯等の、母の役割をこなしている。これがどんなに大変かはわかります。実際にやってみて、どれだけ疲れるか。これを母は、働きながら行っているのです。睡眠時間は5時間あればいいほど。父や弟に弁当を作るのに朝5時に起き、弟を駅まで車で送り(自分で行ける範囲なんだから自分で行けよと思います)、父を送り出し、自分の支度をし、仕事に出て、夕方に帰ってきて、家事。毎日同じことの繰り返しです。これを十余年しているのです。それに加え、目に見える愛情を注げというのは、酷です。わかってはいるのです。

 

数カ月前、心が限界で、アームカットをしました。死ぬつもりのものではありません。最初は興味本位でした。カッターを腕に滑らせ、傷を作る。不思議と痛くありませんでした。血がぶつぶつと浮き出し、それを眺めました。少しだけ、気が紛れたのです。リストカットがやめられない人の気持ちが漸くわかりました。中学生の時にした過ちを謝りたい。リストカットは馬鹿にしてはいけない。本当に、本当にごめんなさい。後悔の念は、あの日からずっとあります。リストカットを馬鹿にしてはいけない。

 

前述で「死ぬつもりのものでは無い」としましたが、その日、わたしは本気で死のうと思ってしまいました。カッターを片手に、仲良くしてくれている友達に遺書を書きました。これは、中学生の時からしているのですが、死にたくなったらまず遺書を書くことにしているのです。馬鹿らしいでしょう。そうなんです。書いている途中で馬鹿馬鹿しい気持ちになるのです。何度も遺書を書きました。渡さず捨てた遺書がたくさんあります。

でも今回は、書いても書いても死にたかったのです。逃げられるなら、逃げたい。もう何もしていたくない。

○○へ、死んだらギターをあげます。○○に素敵な彼氏ができますように。△△へ、結婚式行きたかったよ。彼と仲良くね。□□へ、大好き過ぎて、うざかった時もあると思うけど、許してね。大学生楽しんで。××へ、わたしを否定せずにいてくれてありがとう。救われていました。

遺書を書いている途中で、母が帰ってきました。いつもより2時間も早い帰宅です。まずいと思いながらも、動けませんでした。帰ってきた母は、案の定わたしを見て「何してんの」と言いました。嘘がつけないわたしは、「……遺書、書いてる」。「遺書?(笑)」わかっています。馬鹿馬鹿しいことを。母の発言はどこまでも冷たく、わたしは思わず、大声で泣きました。

「死にたいの、もう何もしていたくないの。ほんとに甘ったれたクズだよ生きている価値もない。こんなの、いないほうがいい。死にたい」

興奮で頭がおかしくなっていました。キッチンまで走って、包丁を取り出し、自室まで走りました。捕まって、包丁は取り上げられてしまいました。

母は漸く、わたしの話を聞く姿勢を取りました。「どうしたの」。理由はいろいろありました。他人にとっては、本当にくだらない。死ねと言われても仕方のない理由です。「生きる価値無いから死ぬの」「誰が決めるの」「だってクズだから」「何が」。義務のようでした。人を、目の前で死なせる訳にはいかない。ただそれだけの作業のようでした。挙句には、溜息。ああ、もう、駄目だと思いました。きっとわたしは認められたいのだと思います。わたしは、誰かの特別でも、すごい人でも何でもない。人より秀でているものなど無いし、容姿だって、いじめっ子のお墨付きです。わたしの承認欲求は満たされたことがありません。生きている価値など、誰が決めるのか。わたしを客観的に見ているわたしです。

結局その日は薬に頼って、眠りました。

 

話は知恵袋のベストアンサーに戻ります。

 

ベストアンサーに選ばれた、6歳の娘さんを持つお母さんは、その娘さんを抱き締め、安心させました。このベストアンサーを読んだ時、わたしは大泣きしました。娘を抱き締め、安心させる言葉をかけたお母さんに。体温と言葉という、ダイレクトな要素で安心を得た娘さんに。わたしは、こんな経験はしたことがありません。

お子さんがいらっしゃる方は、こんな捻くれた子どもにならないように、目に見える愛情を注いであげてください。もし、わたしに子どもができたら、わたしのような思いはさせたくありません。

 

誰もが、一番身近で、自分以外で一番信用のある人間にだけは、承認されたいのです。